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  Isao Kumano a.k.a.phonon
Translucent.MAG issue.003 interview
 


  Tranlusent.MAG issue.002   東京都世田谷区池尻出身のアーティスト、Isao Kumano。音楽プロデューサー、コンポーザー、そしてミキシング/マスタリングエンジニアとしての顔も持つ異才である。その幅広い音楽活動の中でも特に有名なのが、DJ ALEX from Tokyoとのユニット、Tokyo Black Starとしての顔だが、その他、アンダーグラウンド・クラブミュージックシーンへの長年の貢献は計り知れず、日々多くのDJ、アーティストが入れ代わりで彼のスタジオを訪れては、何らかの実験を行っている。2003年、Tokyo Black StarのIsao Kumanoとして、またソロ名義phononとしてのリリースを控える彼が、今の心境を語ってくれた。


  Isao Kumanoとphonon

 近々phonon名義での12インチシングルがリリースされますが、まずここで、Isao Kumanoという本名での名義との使い分けの理由を説明しましょう。誰もが作品をつくる場合、状況や生い立ちというのは、大なり小なり多少なりとも関係があるものです。その上で、例えば、フェラクティなんかは、結局政府と戦ってしまうところまでいってしまったり、キング・タビーも決してみんなが受け入れやすい形式のものではない作品を生んだりしています。しかし、そこで重要なのは、彼等の作品には具体的なリアリティが存在しているということです。また、そういった非常に個人的な作品に対しては優劣をつける必要もなければ、ドラマ性がないからダメだとかということも関係ありません。そういった極端な個人的理由に基づいた作品をつくる場合、ボクは、phononという名義を用いることにしています。それに対して、作品にあえて様々な社会性を持たせる場合は、本名であるIsao Kumanoを名義として用います。それは、例えば本当の意味で正直に生きているひとっているのかと。通常生活する場合、みんなやっぱり他人に合わせるとかそんな考えが働くのが”普通の人間”ではないかと思うんです。確かに、自分がこうしたいと思ったようにやりきってしまいたい、と思うこともあります。では、ボク自身が弱いからそうできないのかというと、おそらくそういうことでもないでしょう。やはり、自分の名前(本名)で人間社会で生活する場合、ボクという人間には社会性が生じるわけです。つまり、他者との関係の中で作品をつくる場合は本名であるIsao Kumanoを、社会性を全く無視するということではないけれども、よりオープンにフリーに作品をつくる場合はphononを名義として用いているということです。


Disarmament [武装解除] の必要性

 ”phonon”とは、音響粒子という意味です。あらゆるものには、元を辿ると音の粒子が存在します。この世に存在するものは、それが絵であれなんであれ、すべからく音の要素を発しています。それは”気”であったり、”空気”であったり、空想ではけっしてない本当にここに存在するリアリティです。その目に見えないが事実存在する音の粒子”phonon”を、つまりそこに間違いなくあるリアリティを表現したいということなんです。しかし、実際それを表現しようとするときには、ただならぬ決意が必要になります。邪念を取るというか、今あるこの現実を、この空気を感じようとするときには、心をオープンにしなければいけません。例えば、ニューヨークでウケようとか、誰かしらに評価されようと考えた瞬間、それは知らず知らずの内に自分を武装しているということになります。では、”Disarmament”、つまりその武装をはずずことができるのか、と。例えば戦場に武器を持たず丸腰で臨む時、そこにはすごい緊張感が生じるはずです。それと同じような姿勢で生み出された作品に対して、聴きやすいとか聴きにくいとかということは関係があるはずもなく、その存在は、そういうのを超えたものと言えるでしょう。今みんなが、あまりにも武装しすぎている。本当にオープンにしていくってことでは生きていけないのかもしれないけど、それでもオープンにしていく姿勢っていうのは今の時代必要なのではないかと思うんです。


Demilitarized Zone [非武装地帯] であるべき音楽

 東京に暮らすボク達の音楽体験は、非常に擬似的なものです。日本は様々なその時々の世界の空気をたくさん取り入れているわけで、仮にそれこそが自分達のルーツであると積極的に理解したとしても、突き詰めると結局リアリティがないということになります。もちろんそういった擬似的にそれらを体感しているというリアリティはあります。でも擬似的な体感から実験的につくったものが自分であると言ってしまうと、それは非常に不完全なものになってしまいます。その作品が、ある種感心する程徹底した模倣がなされている場合はまた別ですが、ルーツのない場合特に、作品のクオリティが低いとまったく話にならないわけです。模倣してかたちにするということは、現実的に何も背中にしょっていないということですから。

  事実、真に心をとらえる音楽はストーリーやリアリティを確実に持っています。確かに音楽は真似をしてつくるだけでも十分楽しいものです。でも、なるべく自分が好きなカッコイイ音楽に近づけようとすることをよしとしても、ある時点で自分が擬似的だって気づいた時には、本当の個の空間が見えていない音楽を自分で残してしまっているという恥ずかしい結果を生んでしまいます。東京のクラブシーンに関わっているとわかるのですが、世界のどこかでカッコイイ音楽が生まれた場合、東京にはすぐその情報が入ってきます。そしてそれを『自分が一番最初にカッコイイって言った』という競争が始まります。初めから東京に在る空気を見ようとはしていません。つまり外を見ることによって自分の音楽活動をするというスタイルが横行しているのです。やはりそれでは、そこにリアリティなど存在するはずもありません。ではリアリティがあればいいのかという話にもなりますが、実際に感じたことによって自分の気持ちが動かされた時、それがうまくすればひとにも伝わるはずなのです。空想で話していたらダメなんです。ボク達は戦争なんかもCNNあたりから送られてきた映像で理解します。でもその場にいたら凄い衝撃を受けるはずなんです。おそらく大概のカッコイイ音楽というのはそのぐらいの衝撃に基づいてつくられているわけですから、それをボクらが真似をしようとしてもそれは嘘ですよね。『何かの東京的な擬似的体験を音にしました』って、なんでそこまでして、擬似的な作品をやらなければならないのかと。ボクはそこを何とかしたいんです。音楽をやっているひとの危機であるとすら思うんですよ。ドイツで流行った新しい音楽をやるのもいいけど、それはそれでカッコイイけど一回自由に音楽やってみようよ、というメッセージでもありますね。また、補足するならば、Isao Kumano名義でやっているものに関しては、ある意味”役者”に、つまりやるべき音楽に対して擬似的にそういう生活をしてみようということから始まります。東京というのはなぜかそっちの方が仕事として成立するわけです。それはそれでおもしろいことです。東京においてはそちらの方が一般というわけです。東京のクリエーターというのは、本当に屈折した状況に追い込まれているのではないかと思います。でもなぜそういった屈折したものをつくらなければならないのかとよくよく考えてみると、そういうものを求めているひとが多いということであって、ボクは、そのたくさんの空想したものを求めるひと達が多いというこの現状を変えたいのです。


Tokyo Black Starの整合性

 それでは、ボク自身東京でクラブミュージック、ダンスミュージックをなぜやっているのか、全部嘘なのかと疑問に思うかもしれません。しかしそこには、確固とした整合性が存在します。いわゆるアンダーグラウンド・ダンスミュージックというフィールドでは、通常地域性は問われません。例えば、それがオーストラリア産であろうがフランス産であろうがDJにとってはつくられた場所は関係ないのです。アンダーグラウンド・ダンスミュージックのひとつの表現として、それは地域性に基づいて表現しなければ成り立たないジャンルではありません。だからこそ、そこで表現することは非常におもしろいというわけです。つまり、そこで自分が感じている東京的なものを入れる余地は十分あって、そういうことに対して世界にアピールできる非常に完璧なフィールドと言えます。ボクらがつくっている1000枚、2000枚というレコードは、日本だけじゃなくて世界中のDJの手に渡っています。つまりグローバルなコミュニケーションが可能な非常に洗練された場でもあるわけです。R&Bに関しても同様です。例えば、R&Bを日本語でつくったとして、それをビルボードで大ヒットさせることはそう簡単ではありませんよね。でもダンスミュージックというフィールドにおいてはひとつのコミュニケーションとしての可能性があります。どこかの土地柄を擬似的に表現するっていう依頼であればそうせざるを得ませんが、なるべく東京的な独自のスタイルに落とし込めたらいいなって思ってやっています。そんなだから時々、どこかと似てないって怒られたりもするのですが(苦笑)。似ていないことを誇りとしなければいけないのではないかと思うのです。


Deconstruction [再構築] という結論

 本来、モノをつくるひとの使命というのは新しい価値観、きちんとした現実に即した新しい未来を切り拓くような価値観を表現することが重要であるとボクは思います。たぶんボクらがカッコイイと感じる海外のものにはそういう力があります。日本は正直につくろうとするひとが少なすぎるのです。なるべくそれっぽくつくろうとか、模倣することにばかり気を取られています。でも模倣したものにはリアリティがないから長く聴く音楽にはなかなかならないわけです。日本のものはダメじゃないかって漠然と思う理由は、どこで何をしているのかということがわからない致命的な欠陥があるからなんです。また、それになかなか気づけない環境でもあります。よく海外アーティストなんかに、「日本は平和すぎてまるでディズニーランドみたいだ」って言われるけれど、実はとんでもない牢獄であるかもしれません。情報が多い者が勝ちといった風潮がありますが、それでは結局作品そのもののインパクトを受ける姿勢がないということになってしまいます。こんな平和な国で何言ってんのとか言われるかも知れませんが、”表現”ということに関して、この国は物凄い危機的状況にあると思います。

  何が正しくて、何が正しくない…ということが、もしあるとすれば、ひとからなるべく怒られないとか、表現をひとからなるべくつっこまれないようにするというのはよくないんじゃないかなっていうことなんです。つっこみどころのない表現をよしとする手法を何とかイズムって名前つけてあげればいいんですけど(笑)。ただ、根本的に自由な精神というのは、つっこみどころだらけだと思うんです。例えどんな立派なひとでも。わかりませんが、ボクはそう思います。そこをつっこむのもおもしろいし、つっこまれたら痛いじゃないですか。痛いから嬉しいというか、何ていうか…。いろんな楽しみ方があるんです。今ボクの生活は、「ちょっとそんな荷物を降ろして行こうよ」っていう…、何となくそういった雰囲気になっているんです。


結び

 今、長々と言ってきたことっていうのは、モノをつくることにおいて基本的なことというか、実はすごく当たり前なことなんです。それを主張しなければいけないというか、ふざけんな当たり前だろという話で(笑)。みんなそれを前提でいろんなことがあって、いろいろ評価があるんだと思うんです。これだけ長いこと話して申し訳ないのですが、ボクの作品についてのいわゆる音に関する専門的な説明はまた、同じくらい時間がかかるんですよね。そう考えるとこのインタビュー記事は物凄く恥ずかしいものです。すっごく当たり前のことを長々と説明しただけですから(笑)。どうしよう…(笑)。いまはそういうことも言わなければならない危機的な状況だということにでもしておいてください(笑)。

(2003.1.27)
[interview & text by Ramo]
 
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